小岐須雅之画集「PHENOMENON-フェノメノン-」


小岐須雅之
『INTERVIEW』

『PHENOMEMON-フェノメノン-』の著者であるイラストレーター小岐須雅之のルーツに迫る、
  特別録り下ろしロングインタビュー。本日(7/2)より毎週月曜、3週連続でお届けします。

Vol.1 絵が好きだった子供時代からNYに渡るまで

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今回は小岐須雅之のルーツを探ろう、ということで、まずは小岐須さんが絵を描き始めたきっかけから教えてください。
小岐須
きっかけは近所のおねえちゃんですね。うちの家族は、僕が生まれた日に引っ越して、その新しいマンションに住んでいた姉妹と、物心がつく前から一緒にいたんです。僕は特に長女のぴーちゃんと仲が良くて、ぴーちゃんに洗脳されて育った(笑)。ぴーちゃんがすごく絵がうまかったんですよ。だから、ぴーちゃんに好かれたいがために絵を描いていたんですよね。それをそのまま、ずっと続けている感じです。落ち着きの無い子供だったけど、絵を描かせておけば静かになるという。
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例えば子供の頃に絵を描いていても、思春期になって遊びの方が楽しくなると、絵を描かなくなっちゃう人もいると思うんですけど、小岐須さんの場合はそんなことは無かったですか?
小岐須
遊んでいても絵だけは描いてました。本当にずっと描いてたんですよ。こうやって喋っている時でも、打合せ中でも、電話中でも。しかも、つい5年くらい前まで。だから常に鉛筆とメモ帳を持ち歩いていて、持ってないと不安になっちゃうくらい。ラーメン屋に置いてあるアンケート用紙にまで絵を描いてましたからね(笑)。
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すごいですね。それだけ当たり前に生活のなかに絵を描く行為があって、それでも美大ではなく、文化服装学院に進学したのは何故でしょう?
小岐須
うちは、母親がオシャレ狂いだったので、小さい頃からファッション誌をよく見ていて、自分でも中学生の時はずっと「プレイボーイ」を買っていたんです。それで「プレイボーイ」に載っていた文化の文化祭の記事を見て、「楽しそう!」と思って。高校はどこでも良いから、卒業したら文化に入ろうと思ったんです。
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なるほど。高校時代はどんな風に過ごしていましたか。
小岐須
高校は男子高に入っちゃったんですけど、高校の時が一番習い事をやってましたね。日本舞踊と、一時期は三味線もやってました。日本舞踊は9年やっていたので、名取になるまでいったんですけれど、その頃には文化に入っていたので、もう良いかなって。遊びたかったし。高校時代は週2で通ってましたからね、日本舞踊。「遊びに行こうよ」と誘われても「いや、今日はちょっと…」と言うと「ああ、Jダンス?」って(笑)。その時、ちょうどJリーグが始まったばかりだったので。だから、かなりちゃんとやってましたよ。国立劇場で踊ったりもしましたし。それでも唯一絵だけなんですよね、ずっと続けてるのって。絵と……あとはアニメもずっと観てますね。だから、今やってることって、小さい頃からずっと変わってないんですよ。好きなことしかやってない。文化に入ってからも最初だけですからね、真面目にやってたのは。
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文化時代も習い事はやっていたんですか。
小岐須
1年までは。日本舞踊は突然行かなくなったので、先生からガンガン電話がかかってきましたけど(笑)。
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名取になるほどの実力があっても、やめる時にもったいないとは思わなかったんですか。
小岐須
全然思わない。別にそっちで食っていく気は無かったので。
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日本舞踊や三味線をやったり、文化に入ってファッションのこと学んだりしつつも、心のどこかで「絵で食べていく」という気持ちがあったということでしょうか?
小岐須
小さい頃から絵で食っていく、ということは決めていたんですよ。だからデザイナーも、服の絵を描いたらデザインできんだろ、と思ってて。それは、文化に入ってすぐに違うということが分かっちゃうんだけど。小さい頃、祖父が亡くなる時に、既に「絵を描く仕事をする!」と言っていたらしくて、祖父の棺桶には僕の描いた絵も入れていました。漠然と絵を描く仕事をするんだろうな、と小さい頃から思ってましたね。
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ちなみに子供の頃はどんな絵を描いていたんですか。やっぱり小岐須雅之と言えば、今は女の子の絵を思い浮かべる方が多いと思うんですけれど。
小岐須
小さい頃って超合金で遊ぶじゃないですか。それを絵でやってたんですよ。一回描いて動かして、また消して描いて動かして。
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じゃあ、普通に男の子が描くような絵を描いていたんですね。
小岐須
そうですね。オリジナルのロボットを描いていました。自分で想像した戦士やロボットを描いて、勝手にストーリーを考えて遊ぶ。それを結構、恥ずかしいくらいの年齢まで、隠れてやってました(笑)。
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良い話ですね~(笑)。
小岐須
でも、なんか、美大に行く気はさらさら無かったんですよね。美術を習う、という感覚が無かった。例えば描いた絵が入選することはあって、それは嬉しかったんだけど、美大に行きたいという気持ちにはならなかったんです。それに絵もトップでは無かったですしね。小学校の時に阿修羅像に血しぶきを描いたら、「子供っぽくない!」って言われたりして(笑)。
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ある意味、個性がほとばしっていて、先生達には理解されづらかった、と。
小岐須
でも自分では個性ってあまり思ってなかったですね。20代後半になって同窓会をした時に、「まぁ、小岐須は変わってるからねぇ」って、すげぇ言われて、そこで「あ、俺、変わってたんだ」って思ったくらい。でも小学校3年生の時のあだ名が「例外」だったんで(笑)。今、思うと、ちょっと変わった子だったのかもしれない。小さい頃って、女の子と遊ぶのを嫌がるじゃないですか。でも女の子とも普通に遊んでいて、むしろ女の子のケツは小学校の1年から6年まで、ずっと追いかけてましたからね。学年ごとに、ちゃんと好きな人がいるんですよ。で、毎年、告白してフラれる(笑)。周りに女の人が多い生活をしていたせいか、男女を分ける、みたいな考え方はなかった。だから、ままごとを見ていても「ああ、こうやって遊ぶんだー」みたいな感じで、これはこれで楽しいんだな、と思ったりして。
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なるほど。さて文化を卒業した後はアメコミの会社に入社されるわけですが、これはどういう経緯で?
小岐須
もともとニューヨークに行こうと思っていたんですけど、その前にちゃんと1回働かなきゃ、と思って。
――――――
ニューヨークに行こうと思ったのは、向こうで絵の仕事をしよう、と思ったからですか。
小岐須
文化の時は、「絵を描く」って漠然と思っているだけで、それが何の職業なのか……イラストレーターなのか画家なのかアーティストなのか…。そこらへんは、あまり気にしてなかったんですよ。でも色々考えていくうちに、俺がやりたいのはイラストレーターってやつなんじゃないかと思いはじめて。それで浮世絵展を観に行った時に、浮世絵師の英語表記が「illustlator」だったのを見て、あれもイラストレーターなら、やっぱりイラストレーターかな、って。本当は卒業したらイタリアに行こうと思ってたんですよ。一応、文化だったので、ファッションイラストレーションならイタリアだ、って安易に(笑)。そう思いながら、文化時代は遊び散らかしつつ2年くらい過ごしていました。それで、3年の時に中国との交流会みたいなものがあって、選ばれた子が中国に行くことになったんです。僕は背が高かったので、モデルとして行くことになって。そしたら飛行機の隣の席が学年主任だった。怖いと言われていた先生だったんですけど、なんだかすごい喋っちゃって。その時に「あなたがやりたいことはイタリアじゃないわよ、ニューヨークよ」って言われて。「食べなさい、この助六」って、渡されたかんぴょう巻きを食べながら、「じゃあ、俺、ニューヨーク行こう」って。まぁ、安易なんですよ(笑)。
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それでニューヨークに行く決意は固めつつも、その前に働かないと、と。
小岐須
学生なんて親のすねかじりじゃないですか。「ニューヨークに行くにはどうすんだ」となった時に、親からはやりたいことをやれば、と言われたんだけど、このまま行っちゃったらマズいんじゃないか、と思って。それで一回働こうと思ったんですね。社会に出るとか就職してサラリーマンになるとか、そういう感覚もあまり無かったので、ちょっと悩んで、マンガは好きだし、アメコミも好きだし、ってことでアメコミの会社に入った感じです。
――――――
その時は編集者として働いていたんですか。
小岐須
そうですね。でも、まぁ……絵は描いてたんですけどね。その頃は、いったん絵をやめてみよう、とも思ったんですけど、やめられるわけが無い。だって、歯を磨くのと同じようなもんだったので。落ち着かないと、ずっと描いちゃってたんですよ。で、その頃、夜はBarで働いていて、そのBarで働いていた人がいろんな人を紹介してくれたんです。スタイリストやメイクの方、モデルだとか。そうやって仲良くなった人に「あんた、絵、描いてるなら飾ってみれば?」と言われて、店に飾ってみたり。そしたら、それを見て雑誌に話してくれた人がいて、「流行通信」の小さい枠で描かせてもらえたんです。その時に「俺のやりたいことって、こういうことなのかなぁ、何やってんだろ…」と思って。それで1年で会社を辞めてニューヨークに行くことにしたんです。全然ノープランだったけど、行けばどうにかなるだろう、と。
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ちなみに、その時の絵は、もう今の絵に近い感じですか。
小岐須
そうですね、文化の2、3年はメンズ科なので、男ばっかり描かされてたんですよ。もう、ストレスで。「別にヤローなんか描きたかねーよ!」みたいな感じで、自分で描くのは女の子ばっかでした。
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なるほど(笑)。実際にニューヨークに行った後はどんな風に過ごしていたんですか。
小岐須
こもって、本当にもう、ずーっと絵ばかり描いてました。英語もこれっぽっちも勉強しないで行ったので、最初は生活に慣れるので精一杯だった。でも慣れてくるんですよ。ジョン万次郎みたいな感じですよね(笑)。まだ、全然喋れないんだけど、言っていることはだんだん解ってきて。あっちでは、仲の良かったモデルの友人と同居していたので、家では友人と喋ったり。一緒に生活をしていると、「今日は全然描きたくない」という日があっても、「描け描け」言われるので、ちゃんと描いて。模写をしたり、描いたことの無かったものを描いたり、とにかく今までしたことの無かったことをしました。実は、この時が一番辛い時期でしたね。語学学校には通ってたんですけど、宿題もやらずに、ずっと絵ばかり描いてた。とにかく絵を描いては、そこら中の壁に貼りながら「どうすんだろうなぁ」って、自問自答の日々。頼れる人もそんなにいなかったし、頼って生活しても何にもなんないし。自分の小ささを知るというか。一緒に住んでいた友人は、その時、モデルとして第一線で活躍してたんですよ。
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そういう友人が身近にいると焦る?
小岐須
焦ったりもしたけど、友人は友人で現実的な考えがあって、「モデルはそんなに長く続けられる仕事じゃないけど、オギちゃんのイラストレーターは一生続けられる仕事でしょ?」って励ましてくれて。それで、サルバドール・ダリが「画家を志す者よ、ただ絵を描きたまえ!」と言ってる、という話をしたりしながら、どこに出すあても無い絵を、とにかく描いてました。で、東京の友達に原寸大のコモドオオトカゲの絵をFAXして、FAXペーパーを無くす、というイタズラをしたり、友達の会社に風俗店のチラシみたいな絵を描いて送ったり(笑)。そんな風に過ごしている時に、友人がニューヨークに遊びに来て、ANNA SUIを紹介してくれたんです。それでアナに「あなた、何をやってるの?」と訊かれたので、絵をあげたんですけど、そしたら「私のTシャツをやらない?」って言われて。でも、まぁ社交辞令かなあ、と思ってた。そしたら3日後くらいに知らない外国人から電話があって。それが「marie clare」の編集長だったんです。
ニューヨーク時代、小岐須雅之がANNA SUIにプレゼントしたというイラスト

ニューヨーク時代、小岐須雅之がANNA SUIにプレゼントしたというイラスト

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