第四回 カフェのマスターになった男

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脱サラから40年

 

今回の登場人物

◆話し手 正能 明(カフェのマスター)

◇聞き手 北尾トロ(調査人)

・写真=寺澤太郎

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 高校生の頃から喫茶店にはさんざん世話になってきた。コーヒーが好きだから、いまだって行く。打ち合わせや待ち合わせの場所として利用することもある。でも、それはたいてい、味気ないチェーン店での話。のどを潤したり煙草を吸ったりする、実用的な使い方がメインになっている。

 かつてはそうじゃなかった。喫茶店に入るのは日々の暮らしの楽しみだった。朝ならモーニングセット、昼はランチ、午後はまったりと文庫本を読むスペース。カウンターの中には無口なマスターがいて、面白そうな客が入れ替わり立ち替わりやってくる。いまで言えば、クセのある飲み屋の雰囲気が近いだろうか。だけど、決定的に違うのは、喫茶店には高校生でも入れたことだ。小銭しか持っていなくてもコーヒー一杯で2時間は粘れた。そして、そこは大人の世界を覗き見ることのできる、とても貴重な場所だった。

 今回の“仕事人”は、喫茶店黄金期の1970年代に脱サラ開業し、現在まで現役を貫いているカフェ ビィオットのご主人だ。

 

PR会社からあっさり脱サラ

 

◇いきなりですが、脱サラですか?

 

◆そうですね、脱サラでね。長いことやってます。ここは20年やってます。店を始めて40年間で、ここは4軒め。最初は八丁堀でした。喫茶店っていうか、KEY COFFEEの豆を使ってまして、コーヒー専門店でしたね。

 

◇70年代初頭当時で言えば、ちょっとこだわりのある喫茶店。

 

◆いやもう、普通のお店ですよ。

 それでわたくし、何も知らないでこの世界に入っちゃったから、高校の友達でコックを呼んで、パン切るのを学んで。コーヒーも素人で。

 

◇コーヒー好きが高じてとか、そういうのではないと。じゃあ喫茶店やる前は?

 

◆PR会社で働いてました。共同PRというところで。いわゆる広告関係ですね。そこに就職して。

 町工場が花だった頃ですが、マスコミ志望も多かったです。大学は明治学院大学でした。東京出身なんです。するっと大学に入り、するっと就職しちゃった感じですね。勤めたのは丸三年でした。私の能力でPR会社の仕事はむずかしかったかな。今思えば、もっと勉強しなくちゃいけないのに、安直に入って、安直に辞めちゃったかな。もっと真剣につきつめてやればよかったんだけど、頭がそこまでいかなかったんで。具体的には編集みたいな仕事でしたね。冊子作ったり、あと記者会見やってたんですね。百貨店とか、ファッションショーとか……。そういう資料を作ったり。いわゆるプレス用の資料作りでしたね。甘く見てました。いま思い出しても、大変な日々でしたね。

 

◇それでいやになっちゃったと。

 

◆能力の限界かな。まわりのひとがすぐれてたんでね。でもやっぱり最初3年くらいは、みんな修行時代でしょ。なのに時代は「脱サラで儲けよう」という風潮だったんですね。高度経済成長期の最後の……。

 

◇少し整理させてください。1947年生まれで、1970年に大学を卒業して就職したと伺っています。その頃はどういう時代だったという印象ですか?

 

◆会社に入った年にちょうど大阪万博がありました。時代はもう、すごいいい時代でしたよ。『ALWAYS 三丁目の夕日』のいいところを集めたような。古き良きところがまだ残っていて、なおかつ新しいものがどんどん出てくる。不安もない。給料は月に2万円くらいでしたけど、毎年上がっていくし。バラ色の時代でしたよね、今思えばね。

 

◇先のことは気にせずに、やりたいことがやれるムード。

 

◆バブルのときは、一握りのひとがバブルでしたけど、高度成長時代はみんながいっせいに花開くというね。今思うとそういう時代でしたね。

 

◇PR会社も忙しい。

 

◆「いけいけどんどん」です。私なんか、ついていけない感じでしたね。でも頑張ればやっていけただろうけど……ただ、その頃は、脱サラしてもっと儲けようという風潮があったんですよね。

脱サラ自体がわりと新しい言葉で新鮮でした。業種はさまざまでしたよ。飲食店もそうだし、建築、製造業……自分で勉強して、小金貯めて、それ脱サラだ、っていう時代でしたね。

 

◇誰でも一国一城の主になれる雰囲気が出来上がっていた。

 

◆いい時代でしょ。で、私はもう結婚していたし、PR会社で苦労するより独立したいなあと思うようになったんです。

 

時代は高度経済成長期〜花屋かカフェか

 

◇ちょっと待ってください。そんなに若くてロクに仕事もできないのに結婚したんですか。

 

◆(記憶を探るように)就職して2年目……25歳で結婚したんですよ。明学で一緒だった子と。で、グアム島に新婚旅行へ行こうと思って、そしたらそのお金を会社が出してくれた。当時は1ドル360円の時代ですよ。会社の側も税金対策になるということで、毎年一人〜二人は海外へ行くようになりましたね。夢みたいな話でしょ。飛行機代、宿泊代出してくれる。儲かってたね。なんの商売しても儲かってたんだね。

 

◇いい会社じゃないですか。世間的には順風満帆。それでも3年しかもたなかった。

 

◆脱サラだなんて、ねえ。若いというか、勢いです。

 

◇しかし独立資金は?

 

◆妻の実家が精密機械の工場やってたんですね。時計屋さん。それでおやじさんが商売に理解があって、銀行から資金を借りてくれたんですよ。すごい理解示してくれて。結婚するときはえらい反対されたんですけど。だいぶ前に亡くなりましたけど……。

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◇まず独立ありきの脱サラだったんだけど、運良く支援を得られたわけですね。

 

◆はい。そのときに、花屋やるか、喫茶店やるか……花は年中手が冷たいからツラそうだなとか。軽い感じでした。とりあえず商売やってみようって感じが強かったですから。というのもね、三ノ輪にある実家がラーメン屋やっているんです。いまもそうですけど。いまも兄貴がやってます。

 当時は景気が良かったから、出前持ちの人手がなかったんですよ。で、高校生のときに、「大学行こうと思うんだけど」って相談したら、「土日にラーメンの出前運びやるなら大学行ってもかまわねえ」って。それで大学行けたもんで。何しろ勉強したっていうほどでもないんだけど……。

 

◇就職してみたらサラリーマンは性に合わなかった?

 

◆やっぱりどこかね。

 

◇独立だと。花屋か喫茶店がいいんじゃないかと。

 

◆うん……なんか商売がしたかったんですね。いま思えば花屋もよかったな。どっちがいいかな……ガーデニングもおもしろそうだったな。

 

◇動機がいい加減というか、てきとうですね。奥さんのお父さんはどれくらい貸してくれたんですか? 独立開業資金って当時どれくらいかかったものでしょう。

 

◆500万円くらいじゃなかったかな。それで不動産屋を何軒も当たってみて、八丁堀に決めました。

 住んでいたところ? 当時は西原(渋谷区)のほうで。ちょっと遠いいんですけど(八丁堀で店を開いたのは)なぜかって言うと、実家のラーメン屋って、みんなが遊んでるときに忙しいんですよ。みんなが遊んでるときに配達するんだからね。だから最初、飲食店はやりたくないと思った。でも、独立するとしたら業種は限られるし、自分にできそうなのはカフェくらいだろうと。ビジネス街だったら日曜日も休めるし、お正月も……。

 

◇自分のことばかり考えてらっしゃる(笑)

 

◆喫茶店なら、サラリーマンより朝一時間早く来て、終わるのも一時間遅いくらいかなと。週刊誌も好きだから、お客がいない時間は週刊誌読んでいればいいんじゃないか、ハハ。

 

◇聞いてても緊迫感ないですね。

 

◆(苦笑して)そういう感じじゃなかったなあ。これで成功してやるぞというほどの意気込みでもなくて、しばらくやってみようかなあ、ぐらい。

 

◇のんびりした性格なんですか?

 

◆商売をやる動機として、まあ自分のペースでやって、そこそこ稼いで、人並みに休んでっていう……それならサラリーマンやってたほうがいいんじゃないか、くらいの……わりとみんな一度は考えるけど、よくよく考えれば甘いよな、っていうような話で(笑)。でも時代の勢いですよね。週刊誌とかも、脱サラで成功している話をよく載せていました。そうそう、『週刊サンケイ』っていう雑誌の編集をしていた人がPR会社によく遊びに来ていて、年中脱サラの話をしてたんですね。だったら脱サラいいなと。

 

◇……。

 

サラリーマン時代にも増して「モーレツ」に働く!

 

◆独立資金も運良く借りられて。しかも、スタートが順調だったんです。店をオープンし、妻とアルバイトの子と3人でやってたら、二〜三年で借金返せちゃうの。儲かった。すごい儲かった。

広さは10坪くらいで。いまが25坪くらいですから半分以下の狭い店。座席は20席くらいでした。店の名前は「テラス ほりえ」。堀江さんっていう人が私の前にやってたんですね。

 

◇そのままですか、驚くほどこだわりがない(笑)。それでも当たった理由は何でしょう。

 

◆いまからでは想像できないかもしれないけれど、モーニング・サービスがね、うちらみたいな喫茶店の独壇場だったんですよ。開店時間は当初8時だったんだけど、お客さんがもっと早く来てくれるんで、7時にしました。会社員時代はモーレツ社員でしたけど、独立後はもっと働いた、モーレツに。お客さんを逃がしたくないから。そりゃもう、忙しかったです。

 お昼はサンドイッチ類なんですけど、それもね、当時、商社の兼松江商さんとか、清水建設とか、大手(の企業)が昭和通りにあって、お店が八丁堀だったので、朝っぱらから、モーニング・サービスをお客さんが席取りで走って来るんですよ。昼は昼でピザトーストとかやってたんですけど、当時は、他店にはあまりないメニューでした。だから時代の早め早めで商売できてたのかな。たまたまですけど。で、昼は女の子が走ってやってくる!

 

◇喫茶店の全盛期ですね。

 

◆当時はサイフォンコーヒーでね。いや、でも、本当によく働いたなぁ。土曜出社があたりまえの時代でしたから、定休日は日曜日だけ。週休2日制が増えてくる35年くらい前の話です。朝ご飯は食べる時間がないので、うちのやつ(妻)と店のそばの焼き魚定食屋さんで朝ご飯食べて、店をガッと開けて、お昼は店のもの食べて、夕方は自宅の近所の定食屋で晩ご飯食べて。毎日がそんな調子でやっていたら借金が返せちゃった。店が軌道に乗るまでは、友達とも遊ばないようにした。格好つけたかったし、店がおもしろかったし。そうするとお金使わないんですよね。朝、電車に乗って店へ向かう間に、「今日の売り上げ目標はこれくらいだ」とか相談して。

 

◇いくらくらいが目標額に?

 

◆3万円くらいでしたね。コーヒー1杯120円でした。次の年が150円、また次の年が180円。インフレの時代でしたから、借金はすぐ返済できちゃう。借金しないほうが損という感覚でした。平均して一日でお客さんは100人くらい。ずっとコーヒーを入れている感覚です。

 

◇いわゆるコーヒー修行はしたんですか。

 

◆はい、某メーカーでコーヒー教室っていうのがあって、そこで習いました。

 

自家焙煎を目指すが…

 

◇独立開業したい人を指導し、独立後は自分のところの豆を使ってもらうというやつですか。

 

◆それで忙しくやってたんですけど、段々疑問がわいてくるんですよね。なんでかっつうと、毎年10月の末あたりから、「年末年始の注文は多めにして」って言われるんです。正月休みになるからそうしてくれと。でも、もともとそこのコーヒー、あまり良くないなって思ってて。仕上がりのコーヒーの味が薄くなるんですよ。

 そんなときに、自家焙煎のコーヒー屋さんがちょこちょこっと出始めてきまして。そうか、これからは自家焙煎が良さそうだ。本格の味にはこだわりたい自分にも向いている、オリジナリティーのある味づくり。いつかはそっちに行きたいなという気持ちが芽生えてきました。

 喫茶店始める前から豆にこだわりがあったわけじゃなく、店を始めてから、徐々に本格派志向になっていった感じです。

 日曜日になれば二人で名のある店に出かけてコーヒーを飲む。そこは仕事ですから。それで、何軒か見てるうちに「自家焙煎だったらいいな」と考えるようになりました。自分で工夫できるでしょう。なんとかそれをやりたい。メーカーから仕入れるのでは鮮度がダメなんですよ、豆の。どうしても時間が経っちゃうんですよね。

 

◇(豆の仕入れ先の)当てはあったんですか?

 

◆ないですね!

 

◇(思わず吹き出しつつ)困りました。

 

◆メーカーに言っても、生豆を売ってくんないんですよ。どうしてかって言うと、その頃は生豆を焙煎し、そこで付加価値をつけて売るのがメーカーの商売だったから。生豆を売るなんて絶対ダメだ、って感じでした。

  「テラス ほりえ」が成功したので、5年間がむしゃらに稼ぎ、次に出店したのが虎ノ門です。ビジネス街ですね。このときはカフェ ビィオットっていう名前にしました。南フランスにビィオット村っていうのがありまして……。

 

◇現在まで受け継がれている店名ですね。ビィオット村へ旅行した時のイメージからの命名ですか?

 

◆いえ、(雑誌の)『アンアン』とか見てて、「これいいな」って。女性が好きそうな名前なのでつけました。

 

◇……『アンアン』でしたか。(気を取り直し)ビジネス街の八丁堀に店を出して、モーニングで稼いだ。そして一軒目をやりながら、5年後に二軒目を出した。しかも自家焙煎。順調すぎるほど順調です。

 

◆そうですね。自家焙煎でおいしいコーヒーを出していけば、店五軒くらいでチェーン展開できるんじゃないかなと思った。でもできない。人を育てることができなかったので苦労した。やっぱりそういうところが勉強不足、経験不足かな。

 自家焙煎では、生豆を買うのに苦労もしました。いまならネットでいくらでも買えるけどね。あの頃は情報もなかった。柴田書店っていう食の専門出版社がコーヒーの雑誌を出していたので、編集長に名刺を持って行きまして、「こういうことやりたいんだけど相談に乗ってください」とお願いに行きました。それで銀座の二丁目かな、住田物産(当時)っていう貿易会社があって、そこを教えてもらった。

 そこには以前も行ったことがあって、「生豆を売ってくれないか」と言ったら、「(そんなことをしたら)この業界が壊れるからダメだ」って言われて、門前払いだったんです。でも編集長の名刺を持って行ったら、「しょうがない」っつって、生豆を少しずつ分けてくれた。

 

◇顔でOKが出たんだ。

 

◆業界の掟みたいなのがあったんですね。結局、自家焙煎が流行り始めてからは、いわゆる焙煎業者っていうのはズタズタになっちゃったからね。この20年くらいで。だからよっぽど利権を守りたかったのかな。

 二軒目の開業資金は銀行で。銀行の人も一生懸命で、お金がないけどお店出したいって言ったら資金貸してくれただけじゃなく、お金の上手な借り方を教えてくれたりした。

 

◇若かったから親切だったんですか? それとも、喫茶店自体が儲かる商売だと思われてたんですか?

 

◆若かったからだと思います。もうなくなっちゃったけど、第三信用組合っていう、小さい商店とか中小企業を応援する金融機関でした。少し金利は高かった。でも問題なくお金を借りられましたね。200万円借りて、虎ノ門のお店を出すのに1500万円くらいかかっちゃったんですよ。借金地獄だわ。これは苦労した。それからは商売は止めようにも止められない。いつも返済しなくちゃ。これの繰り返し。

で、一軒目を手伝ってもらった連中が独立したいというので、彼らに店を転売して、こっち(虎ノ門)のほうに資金を入れました。軌道に乗るまで二〜三年かかりましたかねぇ。

 

◇最初の店は譲り、そのお金で借金をチャラにした。結構やり手ですね。

 

◆時代の流れですね。三軒目は1980年代に入ってから神田の東松下町っていうところで、カフェ ビィオットっていう名前で出しました。スタッフはアルバイトの情報誌『フロムA』で募集すればすぐに集まりましたんで、コーヒーの焙煎技術を覚えてもらって、そこそこ繁盛しました。

 

理想のブレンドと店構えを求めて

 

◇ようやくコーヒーそのものの話題になってきました。自分のブレンドにするまでは、結構研究されました?

 

◆(カウンターに向かって)ちょっと、ブレンドを持ってきて下さい。自家焙煎で安定した味を提供するまでには時間がかかりましたね。淹れる人によって味が違っちゃうんだね。ビールとかウイスキー、ワインとかと違って、コーヒーは全部、人の個性が出ます。同じ豆でも、一週間前と、10日経ったのと違うし、保存状態でも違う。コーヒーの味を一定に保つのは大変なんですよ。どこかで妥協しなくちゃいけないんだけど、少しでもおいしく、と欲がありますからね。

 まあ、よく飲み歩きました、コーヒーを。飲み歩いて、「この味が良いじゃないかな」とか、舌で覚えるしかない。焙煎機なんかも、作ってるところでさえ操作の仕方をあまり教えてくれない時代ですね。

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◇自分なりのブレンドはどのように味を固めていったんでしょうか。

 

◆私のブレンドは、ブラジル、モカ、コロンビア、グアテマラの4種類をベースにしてます。いろんな本を読んでは研究して試行錯誤です。今はこの味に落ち着いて。ここまでたどりつくのに20年くらいかかったかな。何%の配合とか、焙煎の度合いとか……当時はブラジルの豆が良いのは、味が安定していて、安くはいってくるし、どの豆にもなじみやすいところでブレンドに向いていた。

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◇(一口飲んで)おいしいです。ブラジル・ベースだと、すっきりしていて、コーヒーを飲んだ後に水を飲まなくてもいい感じですよね。ただ、こればかりは配合の問題もあるし、ローストの技術も、自分でやるしかないですよね。

 

◆うん。自家焙煎の店が増えてくると、八重洲のブックセンターとかでも、だんだん自家焙煎の本を見かけるようになりましたね。さっきの柴田書店でも、「これからは自家焙煎のコーヒーがいいんじゃないか」っていう特集を組んでくれたりとかして。それを参考にさせてもらいましたし。読んで試してみての繰り返し。

 自家焙煎はまだ始まったばかりで、とにかくみんなコツがわからなくて、濃く焙煎しちゃう。それでKEY COFFEEやUCCと差別化しようとする。自家焙煎のコーヒーというと、やたらと濃くローストして苦かった時代です。

 お客さんもわからないから、苦いなと思っても、見栄を張ってブラックで飲む。私も当時はとにかく濃くしちゃいましたね。そういうコーヒーの味が流行った時代があって。でも段々それじゃああんまり……もっと「コク」があって、口当たりサッパリで上品な味がいいなとか思うようになりましてね。振り返ると昔のコーヒーはひどく苦い感じでした。いまはどこもおいしくなりましたからね。

 コーヒーの味も時代、時代で微妙に変ります。

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◇80年代後半あたりから客のレベルも上がった気がします。

 

◆それ以前はインスタント・コーヒーの時代で、一般的にドリップやサイフォンは喫茶店で飲むものでした。それが徐々に変わっていって、家庭で気軽に飲めるようになる。ペーパーフィルターが一般化してきて、そりゃレベルも上がります。

 そうそう、10年ほど前にブラジルへ行ったんですよ。サンパウロのバールに入ると、淹れたてのコーヒーがおいしいところと、作り置きのまずいところがあった。当時からイタリアのバールがサンパウロにも進出しはじめて、やっぱりコーヒーはこういう風に淹れたてでなきゃいけないっていう風にブラジル人達の意識が変わっていく時期だったんです。コーヒー農園もね、私と妻が2人で行ったら、農園主の人が大勢集まってパーティしてくれたり、えらい歓迎してくれるんですよ。これまでのように安いだけじゃダメなんだっていう意識が芽生えてきたんでしょう。日本はそれよりちょっと前から、いいかげんなコーヒーはダメだから、もっと鮮度のいいスペシャリィーコーヒーを提供しようという傾向に変わってきていたわけで……。

 日本のほうがアメリカより自家焙煎は進んでましたね。でもスターバックスが出てきてからはキビシくなってきましたが……。

 話がずれましたが、虎ノ門の店では、店構えとかも含めて思うようにやりたいことができました。ただ、まだ規模が小さかったんで、味は安定しなかった。かなり基礎は固まってきたけど、やりたいことの六割くらいだったかな。いまのこの店は理想に近いですけど。

 

「常連さん」たちとの青春時代

 

◇味のことだけじゃなくて、広さとか雰囲気も込みでほぼベスト。だんだんプロっぽい話になってきました。

 

◆そうですね。自分の身長とか導線を含めてお店を作るっていう。まあ、お店もある程度制約がありますから、シンクはこっちのほうだけどまあしょうがないかなとか、完璧にするのはムズカしい。でも、コーヒーを煎れるスペースはちょっとこだわりたい。店に入れば12時間以上も店で過ごすことになるから、カウンターも広くとりたい。で、カウンターの中は仕事をしやすいようにちょっと掘ってもらおう、とか。当時いろんなことを考えましたね。

 もともとビジネス街でやりたいって考えた理由は、お店で打ち合わせしてほしかったんです。サラリーマンに来てもらえる店にしたかった。商談が出来る店、10坪くらいだと狭すぎてだめなんだよね。理想は大きい方がいいのかな……20坪ちょいくらいがいいのかな。

 

◇ところで、店をやっていると顔なじみができますよね。常連さんとのつきあいとかは?

 

◆苦になったりならなかったり。こっちも好みもありますし。イヤなお客が来たからって逃げるわけにはいかないしね。楽しかったのは八丁堀の時代。こっちも青春時代だったんで、お客さんに誘われて、流行り始めたスキーとテニスのバス・ツアーを組んで、年に何回かは行ってましたね。軽井沢でテニスしたり、志賀高原でスキーしたり。そういうことしないと、お店にばかりいたらそれで一生終わっちゃいますしね。

 あんときはもうね、同い年みたいな連中が朝から店を動かないでいるんですよ。会社行かずに。それでついに張り紙をだして、「もう来ないでくれ」て。それでも来るから。こっちは必死で借金返してるのに(笑)。友達のところに遊びに来るみたいなもんです。彼らの多くは広告会社にいたのかな、その後いい仕事するようになるんですけど、その頃はお金なくて、仕事なくて、喫茶店でくすぶっていた。仕事中に話しかけてきてうるさいから、紙とペンを与えるでしょ。そしたらずっとイラストを描いてるんだよ。それこそ何時間でも。その後名前を知られた広告のアートディレクターになるおんちゃん(恩田一郎)っていう人がいたんですけど、色にすごいうるさいんだな。カウンターの色を決めるのも、ずっとここに詰めて決めてくれましたね。店のロゴマークもおんちゃんが決めてくれたのかな。

 あとは……お客さん同士で結婚して、仲人を頼まれたことがありました。スキーとか行くと、会社とか違っても仲良くなっちゃう。すごく多かったですね。くっついたり、結婚するとかね。仲良くなるのは同世代が多くて、いまも付き合いが続いてますよ。今日もメール見たら、墨田の花火があるから、何日どこどこの飲み屋さんを予約しといてとか。仲良いですよ。花火大会やるとなると、20人くらい集まるかな。カフェは人が集まって楽しむところですよ。

 

◇でも、最初の店は手放したんですよね。

 

◆そこが客商売のおもしろいところで、虎ノ門でやればそこまで来てくれる。神田でやってれば、神田に来てくれる。

 

◇楽しそうです。花屋じゃなくて喫茶店で正解だったと思います。

 

◆ただねぇ……、結局、喫茶店は儲かんないんですよ。いいときはバブルの時期とか、さっきの高度成長の時期とか、何回かはあるんです。とはいえ、どんな商売もそうだと思いますけど、トータルで見ればそんなに儲かるもんじゃないです。まともにやってると。うん。

 

バブルをうまいこと乗り切る

 

◇80年代末から90年代にかけて、バブル時代はどういう風でしたか?

 

◆そりゃあ忙しかったよ。バブルのときは3時くらいに起きて、店に来て、コーヒー豆を焙煎して。寝る時間がなかった。

 生命保険会社、銀行、証券会社、不動産屋がすごかった。うちでは特に生命保険会社かな。出前で大量にオーダーがはいるんですよ。台車にジュースいっぱい積んで、ゴロゴロゴロゴロ。儲かった儲かった。でもすぐダメになったね、三〜四年かな。

 そんな風にお客さんいっぱい来ますから、早起きしなくちゃいけない。それで、やっぱ42歳で倒れた。

 それでもう気持ち変えて、どっちみち仕事やらなくちゃ食っていけないだけど、上手に仕事やりながら、上手に休みを取って、っていう風にやりたくなったんです。せっかくコーヒーをやってるんだから、ブラジルとかケニアとかイタリアとか、海外回って勉強もしたいじゃないですか。あとホームページでいろいろ書いてコーヒーの産地を紹介するのも面白かったですね。昔は資料があんまりなかったから、いろんなところから取り寄せて書いていたものです。そうすると、また、コーヒー産地への興味が膨らんで出かけたくなる。

 

◇店の権利を売ってくれとか、そういう話はありました?

 

◆ありましたね。でも、このお店作るのも3000万くらいかかったんですよ。さっきも話しましたけど、虎ノ門のお店のために200万借りて、借金を返してっていう時代に地上げ屋さんがいて。当時森ビルのお膝元虎ノ門で、なんか知らないけどヤクザの人が来て、店の中から動かないんですよ。普通だったら帰れって言えるんですけど。

 

◇なんて言われるんですか?

 

◆出て行けって。3000万くらいで買うから出て行けって。で、私、乗っかっちゃったりするの(笑)。いまのこのお店は、そのときの資金のおかげで、借金せずに開店できた。あの頃はそういう話がいっぱいありました。だけどまあ、色気を出しすぎすぎるとダメになっていったね。

 

そしてカフェは二代目の時代へ…

 

◇儲かった時代もあったが、次第にそうではなくなったということですか。こだわりの自家焙煎とかやってると、原価もかかりますよね。普通のコーヒー豆より多少高くてもいいけど、極端に高いとサラリーマンは来られなくなりますよね。それとも喫茶店が増えすぎたんですか?

 

◆複合してますね。喫茶店が増えたし、若い人が来なくなった。立ち食いソバ屋さんが、街中にだんだん出てきて、モーニングのお客も減った。それでね、「えーっ!?」と思ったのは、薬局。薬局でなにやってんのかなと思ってたら、モーレツサラリーマンが朝、リポビタンDを飲んでいる。あれはライバルだったね。朝の食生活が段々と変わってきた。喫茶店に行く時間がないし。そこへファミレスが出てくればまた……。

 

◇みんな郊外に住んで、時間に追われるようになり、喫茶店でモーニングを頼む時間的余裕が失せてしまう。

 

◆やっぱ喫茶店は――チェーン店じゃない個人経営の店は――経営者の空間になっているものです。そこが居心地いいと思うお客さんが来て、そこにいる時間に対してお金を払う。それで贅沢しなければやっていけるという喫茶店文化が70年代にはあったんですよ。そういう意味で、時代は変わってるんですけど、自家焙煎をやってるから、うちは生き延びてるんだよね。

 最盛期はアルバイトが十数人いましたが、いまはここ一店舗に絞ってやってるんです。自家焙煎は鮮度が命。身体にも良いんですよ、アルカリ飲料で血行もよくします。さらに、自家焙煎の豆を買ってもらい、通販とかネットとかで生き延びていく。関東が主ですけどね。これからはホームページも活用して通販やネットに力入れていこうと思っています。現在、店は長男夫婦にある程度任せているんですけど、そっち(通販)にあまり力を入れない。それが最近の不満だよね(笑)。

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◇創業者としてはじれったい。

 

◆まだ子供がいないからのんびりしてんのかな。でも任せて1年経ちましたから、そろそろ本気出してもらいたいのに

 

◇息子さんは小さいときから店に出入りしていたんですか?

 

◆そう。かわいそうだったよね(笑)。遊び場は狭い焙煎室。毎日じゃ飽きちゃうよね。

 

◇儲からないと言いながら、跡を継がせるのはなぜですか?

 

◆長男は学校卒業して、編集の仕事してたんですよ。大学時代から編集やりたいって言ってて、3年ちょっとやってたのかな。それでこっちも、「年齢的にそろそろ店を止めるよ」って話をしてたんですよ。

 そしたらしばらくして所帯持って、「話がある」と相談に来て。その時、お店は儲かんないし、苦労が多いし、「あんまり勧められないよ」って言ったんですけど。個人経営の喫茶店がどんどんチェーンにやられちゃってるわけですからね。まあ、それでもやりたいって言うもんだから。

 そりゃあ、うれしかったです。でも先を考えると、よっぽど上手にやってかないと、一〜二年は、続くかもしれないけど……。

 

◇息子とはいえ、人に店を任せた気分はどうですか。寂しいのでは。

 

◆いやいや、1年くらいになるけど天国です。なんといっても、お金のことを心配しなくていい。支払いとか、そういうことから解放されるし、毎日のんびりです、こんないいことはない。こういう商売だから、頭下げるのはいくらでもね。商売だから、苦ではないんですけど。

 だけど、ちょこちょこ(店に)来てますよ。いても大概30分とか1時間くらいなんですけどね。こうやっていつものお客さんと会って話す。それだけでいいんです。昔のお客さんと世間話するっていい時間ですよね。息子夫婦がやってくれてますから。完全に止めてたらこういうことはないですけど。

 

◇息子さんが淹れたコーヒーの採点は?

 

◆さっき飲んでたのはダメだったな。ずーとこの店はネルドリップで淹れてるんですが、淹れる速度にばらつきがあるんだね。あと微妙に量が違う。お湯の量とコーヒーの量、豆の量。それはいつも決めとけよ、って言ってるんだけど、自分で決めちゃうんだよね。感覚に頼ってしまう。

 

◇まだまだ若いよ、と。

 

◆キャリアが違う、ハハハ。ただね、この先はいまの感覚もうまく使ってやっていって欲しいですね。私が40年以上前に始めた当時は、コーヒーって男の人しか飲まなかった。でもいまは女性のお客さんなんですよ。女性のほうがコーヒー飲みますよ。自家焙煎のお店で、豆を売っていこうってなったら、ビジネス街よりも郊外店だよね。買うのは女性だから。豆を買いにくる人も、ここだとビジネスマンも多いけど……女のひとが口コミでね、紹介して来てくれたりします。そのあたりだと思うけどね。

 ま、ほどほどに繁盛すればそれで。私なんて、疲れているときは、食べながら寝てたからね。半端な忙しさじゃなかった。その分いまはのんびり……(二杯目のコーヒーを飲みながら)これはまずまずだ。

 

◇すごくおいしいですよ。

 

◆ハハハ。これなら合格、ということにしておきましょうか。

 

〇カフェ ビィオット
http://www.cafebiot.jp/
〒101-0038 東京都千代田区神田美倉町1番地
TEL: 03-3254-1154 / FAX: 03-3254-1153

 

☆プロフィール

正能 明(しょうのう・あきら): 1947年、東京生まれ。明治学院大学卒業後共同PRに就職するも、三年目にして退職。第一次脱サラブームに乗り、1973年、八丁堀地区に喫茶店を開業。以降、虎ノ門店などを経て、現在の神田に落ち着く。

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