第九回 "NPOのプロ"という生き方

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「セツルメント」から「生活困窮者再チャレンジ支援事業」まで

 

◇話し手 福田房枝

◆聞き手 北尾トロ

・写真=寺澤太郎

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 なんらかの事情で生活に困っている人たちをサポートする仕事は、社会的な意義も、やりがいも大きい。ボランティア意識の高い彼らが、行政ではまかないきれない細かな仕事をすることによって、この国の生活困窮者はずいぶん救われていると言ってもいいだろう。でも、彼らが具体的にどのような気持ちで働き、どんな活動をしているのかは、あまり知られていない。たまにTVドキュメンタリーで感動的な番組を放送したりするけれど、全体から見るとそういうのは稀な例で、その日常は地味で根気のいる時間の連続だと思う。

 

 福田房枝さんは現在、NPO法人市民福祉団体全国協議会(http://www.seniornet.ne.jp/)に籍を置き、生活困窮者再チャレンジ支援事業(独立行政法人・福祉医療機構助成/http://www.saichallenge.net/)の責任者として飛び回る、NPOのプロである。「NPOとは何か」という抽象的で答えにくい問いに苦笑いしながらも、自らの人生を振り返りながら、ていねいに答えていただいた。経験に裏打ちされた深いことばの数々は、“優しくていい人”なだけではできない、ハードな生き方の証明でもある。

 

◆福田さんは長い間、いわゆるNPO事業に携わっていらっしゃると聞いているのですが。あ、電話ですね。

◇(携帯電話を耳に当てながら席を立ち)すみません、すぐ戻ります。あ、○○君、いまどこ? え、うんうん、いまお金いくら持っているの? (話しながら別室に移動。数分後に戻る)失礼しました。話を始めましょう。

◆NPO事業との関わりはどこから?

◇30年近く子育て支援のNPOに関わってきました。全国各地にある子ども劇場の全国組織で22年、子どもたちの声を聴くチャイルドライン(子ども専用の電話相談センター/http://www.childline.or.jp/supporter/)の立ち上げ、子育て中の両親の為のママパパライン、あとは、子育てひろばの開設や子どもNPOのネットワークとか、まあ、子育てに関することは色々やって来ました。

その後、新宿駆け込み寺の玄秀盛さんと会い、ボランティアスタッフとして4年働きました。そこで刑務所出所者の再チャレンジ事業を始めたのが、こういう世界に入るキッカケです。いまは生活困窮者の再チャレンジ事業に携わっています。

◆具体的にはどんな事を?

◇例えばさっき電話をかけてきたのは、お金も仕事もなくて、泊まるところもない20歳の男の子です。まずはその子の状況を聞きながら、今すぐに必要なことを支援する。次には、その子の希望や、将来も考えながら、自分で生きていける道に一歩でも近づくように“伴走支援”をしていくという仕事です。

◆ホームレスに炊き出しをしたりする活動ではなく?

◇そっちはやってないですね。

◆子育て支援事業と生活困窮者再チャレンジ事業は、内容的に全く違いますよね。

◇ええ、だから私、今でもよく友達に言うんだけど、なんで私、今こういう畑違いの事業をやっているのかな……と。

 刑務所出所者の再チャレンジ事業をやろうと思ったキッカケは、この仕事は玄さんにピッタリだと考えたからです。だから、私自身が自分でこういう仕事を始めているのは今でも不思議なんです。

 

「セツルメント」から「子ども劇場」へ

◆こういう仕事のきっかけは、玄秀盛さんとの出会いなどもあったと思うのですが、まずその前の段階の話から聞かせてください。

◇はい。子育て支援のほうがずっと長いですしね。もともとは子ども劇場という団体との関わりが出発点です。

◆聞いたことがあります。

◇1966年に「子ども劇場」っていう組織が福岡県で誕生しました。それを新聞で知り、当時私は熊本にいたので、熊本にも子ども劇場を作ろうと、大学の教授や学生グループで準備会を作ったのがキッカケです。

 受験戦争が始まった頃のことで、それまで路上ではたくさんの子どもが遊んでいたのに、いつの間にかみんな机にばかり向かい、“子ども達が路上から消えた”と言われた時期でした。なんとかこの状況を変えないと大変なことになると心配した志のある母親、青年、児童相談所の男性の3人の大人が始めたのが「子ども劇場」の起こりです。

◆福田さんは福岡のご出身ですね。

◇そうです、(筑豊の)田川です。

◆どんな子どもだったのですか?

◇親や教師から安心される、いわゆる“いい子”だったような……。でも、小学校3年の時に、学校にあった“二宮金次郎”の像を見て、「お母さん、女は二宮金次郎になれないの?」って聞いたことがあるそうです。母が笑っていました。あと、小6の卒業文集の自分の将来に、どこで知ったのか、“一隅を照らす人に”って書いていました。少し変わった子だったかな? 自覚は全く無いです(笑)。

◆「子ども劇場」ができた当初から関わっていた?

◇いえ。3年目くらいから。創立メンバーは192名。だんだんに全国へ広がり、762カ所50万人の会員組織になっていきました。

◆そんなに大きな組織とは知りませんでした。

◇旅行に行けば、どこの町にも子ども劇場があるみたいな組織になりました。そこにずっと関わっていた私が、なんで出所者とか困窮者支援なのかなぁと今話しながら考えていたのですが、学生時代に「セツルメント」に入っていました。セツルメントってご存知ですか?

◆ボランティア活動の走りのようなものでしょうか。

◇医学部の学生とか、家政科の人とか、私は保育の担当だったのですが、大学や専門分野を超えて学生がグループをつくって、夏休みや冬休みを使って僻地に行ったり、土日は熊本市内の水上生活者のところ

に行って、子ども達と遊んだり勉強を教えたりしていました。

◆学生時代から今と似たようなことをしていたことになりますね。

◇そう言えば……。今まで全く意識がなかったのですが“対人援助”という事では繋がっていますね。ア、スミマセン。

 

先ほどの20歳の子から再び電話が入った。福田さんは歯切れの良い声で受け答えをしながら、相手の状況を聞き出し、すぐに判断を下して、てきぱきと話を進める。「あれからどうしたの? ちゃんと泊めてもらえるって? そう、それは良かった。でもお金がないね。私が教えたところまで行ける? え、歩く……そうね、歩いてもいけるね。でね、そこにいる○○さんという人に話をしてあるから。今夜の宿、場所はわかる?」。

むやみに同情はしない。相手にその気があれば手伝うというスタンスである。相手が今必要としているのは現実的なサポートや拠り所だからだろう。約5分後、「10円玉まだある?何かあったらすぐにかけてきて。」と念を押して電話が終わった。

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生活困窮者ひとりひとりに対応する

◆今の子は地方から出てきてるんですか?

◇北海道から出て来た子です。路上で生活しています。

◆エッ。

◇北海道から東京に転勤で来たのだけれど、仕事が無くなったからといって、10月にクビ。会社の寮を追い出されたので、それから路上で寝たりするようになったんです。

◆一直線にそうなるんですか。すごく簡単に路上生活を始めているように聞こえてしまいます。

◇うーん。寮を追い出された後、しばらくは姉からの援助に頼っていたけど、それも長くは無理でしょ。ネットカフェで寝泊まりしている内に貯金が無くなり、路上にというケースです。

 相談に見える方はいろんな方がいますが、暴力、虐待、両親の離婚や家出によるネグレストとか、過酷な子ども時代を送っている子が多いです。

◆仕事も金もないけど、北海道へ帰りたくないわけですか。

◇帰りたいとは全く言わない。帰れないのもあるし。

◆仕事と住居を失った男性が、どういう経緯で福田さんのとこまで辿りついたんですか?

◇いろんなケースがあるんですけど、今回の場合はネットワーク団体ってのがあって、そこからきた相談者です。で、私は、建設業の社長さんに、そこで働けるようにお願いしようと思って動きました。働き場所はなんとかなりそうですが、それまで自力でしのがなきゃいけない。宿泊先? 行政が用意してくれる緊急一時宿泊所はあるんだけど、そこも追い出されたって言ってるから……。昨日、私もご飯一緒に食べながら、(自分の)息子の所とかいろいろ電話したりして。でもなかなか泊められなくて、少しは現金を持っていたので、「今夜はとにかく漫画喫茶でしのいでね」と。

◆福田さんはマンツーマンで、ひとりひとり対応する。

◇それはどこでもそうですよ。それぞれ背景が違うから。

◆そういう人達を何とか救おうとする団体が繋がってるわけなんですね。

◇新宿区の中で、少しづつですけど。私もこの世界は新参者だから、どういう組織があるのか、まったくわかんなくて。まあとにかくあちこち行って、やっと、全国的にどんな組織があり、この都内にどんな団体があるかが判ってきたところです。

◆まずネットワークを作らないと。

◇そうですね、国や自治体が本腰を入れないとダメですよね。個人、一団体では限界があります。

◆さっきの子も若いし、なんとでもなりそうな気がしますけど。せめて実家との交流があれば……。家庭環境は大きいんでしょうねえ。

◇そうですね、この前の子も二歳から乳児院で、親の顔は全く知らないと言っていましたから。とにかく多いですよ、親が家出したとか、手料理を食べた事がないとか、家庭が機能不全の中で育って来ている子。でも、なかにはお父さんが校長先生、お母さんが児童相談所の職員で、みたいな子もいます。

家庭の問題も大きいけど、家庭も崩壊、地域も崩壊している中で、親の役割を果たせない大人が育って来ているから、これはもう社会的な問題だと思います。

チャイルドラインでも、希薄な家族関係の中で孤独な子ども達に数多く出会いました。共通しているのは、親がいてもいなくても“愛情というものに飢えている。”だから、“承認欲求”が非常に強い。女の子などはホストにチョット優しくされるとデリヘルで働いたり、薬物に手を染めても貢いでしまったりね。

◆仕事や家がなく、頼れる存在もないために路上生活者になってしまう若者に手を差し伸べ、社会復帰の機会を与えるため、現場で実践的活動をする。それが福田さんの仕事ということになるんですね。

 

私が選んだ事はひとつもない

◆セツルメントに話を戻していいですか。

◇はい。昭和40年代の、学生運動の流れでしょうね。私は休みになればそういう、僻地っていわれるところへ行くようになりました。水俣病が騒がれ出した頃で、水俣市からちょっと入った山奥です。だから水俣病の……(悲惨さを)見ていました。今考えてみれば、革マルとか中核とか民青とか、そういう人達がやってたとわかるんですが、私自身はノンポリで。私だけが「社会を変革する? わかんないわー」みたいな派だった、ははは。でも、以前、自民党の加藤公一さんにインタビューしたときには(彼も)「セツルメントに入ってた」って言ってましたから、当時政治色はいろいろ混在していたんですかね? ただ、僻地に行くと病気になっても病院まで片道2時間以上かかるので通えなく、健康保険証の恩恵も受けられなくて死んだオバチャンがいて、これは矛盾だなー、みたいな気持ちは、なぜかずっとありました。

◆時代の雰囲気を感じます。

◇私はまず銀行に就職し、その後福岡の大野城市で公務員として7年間保育園に勤めながら、当時福岡で始まったばかりの子ども劇場の青年部に参加しました。子ども劇場は私にとって大学のようなものでしたし、子ども達の人権を認め、寄り添いながらどうつきあっていくかっていうのは、保育園よりむしろ子ども劇場での体験から教えてもらいました。

◆その後、公務員を辞め子ども劇場の専任に?

◇29歳で福岡から東京に引越ししました。23歳で結婚したんです。子ども劇場を作った一人と。

◆エッ。

◇夫は、創立メンバーで。それで、子ども劇場の規模が大きくなり全国組織になっていたので、東京に行かなくちゃいけなくて、そのとき公務員を辞めて東京に出てきたんです。

◆なるほど。でも、基本的にボランティア的な団体だとすると収入が。

◇そうですね。だから子ども2人抱えてあれこれバイトをしていました。

◆もうお母さんにもなっていた。

◇はい。夫は、最初は当然ですが、子ども劇場では食べていけません。時計売って劇団にギャラ払ったりしていたと言ってました。東京に引越してきてからの3〜4年は、レストランのウェイトレスとか、経理の仕事とか、10種類くらいバイトしたかな。それまでは固い仕事でしたから、初めての経験ばかりで、見る事聞く事が新鮮でそれはおもしろかった。

◆どういう形で落ちつくんですか?

◇夫のコネで「風の子」って劇団に入って、編集の仕事をしました。

◆劇団の編集部。

◇そう、大きな劇団でしたからね。そこで初めて編集を勉強……じゃないな、とにかく作ってくださいって白い紙を渡されて……。そこでよかったのは、決められたことやるのではなく、自分の興味や問題意識を大事にしてゼロからものを作るって事を教えてもらったことです。作っていたのは劇団の新聞や雑誌でした。4年ほどいましたかね。私、何をやっても“石の上にも3年”って、コレ大事にしているんです。

◆また転機がくるんですね。

◇地域でいじめ問題が起こり、お母さん数人と話し合っているうちに、子ども達のために児童館を作ろうってことになって、日野市で七千人以上の署名を集め、児童館の模型を作って提案したら、それが実現することになった。全国センターの方が取材にきてインタビューを受けたんです。ところが読んだ原稿がぜんぜんおもしろくなくて、原稿に文句言ったら「じゃあやってみる?」という話になった。で、できたばかりの子ども劇場の出版部に、時給600円のパートのおばちゃんとして入社(?)しました。

◆夫がトップなんだけど時給制?

◇周囲はボランティアの女性ばかりの中に、私は有給で、まして「○○事務局長の奥さん」という見られ方もありましたから、逆に周囲の見る目は厳しかったと思います。でも編集の仕事は、私には合っていたみたいで、出張とかもしょっちゅうで忙しかったけど楽しかったですね。

 数年後に編集長になり、独立採算制の出版部にして、劇団の批評であろうと何でも本音で言えるタブー無しの編集にこだわりました。10年間で1冊1000円で発行部数3万部までになったのは、少し自慢出来るかな……(笑)。

 その後は、子ども劇場の枠を超えて子どものNPO団体、厚労省や文科省、地方自治体、政治家とか、そういう方たちも巻き込んだ『るーぷる』(ピープルとループをかけあわせた造語で、人と人が繋がっていくという意味)という雑誌に発展しました。

◆でも、軸足はあくまで子ども劇場にあり、編集者という仕事に魅せられたわけではない?

◇そうですね、編集という仕事を通して子ども劇場をなんとかしたい、子ども達の“いじめ”や“孤独”をなんとかしたい、地域の再生をなんとかしたい、NPOの声を政治に反映させたいという気持ちはありましたね。

 ただこれが、友達は信じられないと言うのですか、これまでの仕事で自ら進んでという仕事はなにもないんですよ。

 銀行への就職は、良い人と結婚できるっていう母の思いだし、保育者になったのも母の「これからの女性は仕事を持たなくちゃ」という言葉が大きかった。で、疑問もなく夫の都合で東京に出てきて、たまたま劇団に入り、女優をやるわけじゃないから編集に入り、取材を受けたことがキッカケで子ども劇場の編集部に移り、あっという間に編集長。10年後には事務局長になり、専務理事になりましたが、どれも自分で自ら進んで選んだという意識はないんですよね。

◆成り行きでそうなったと。

◇そうですね、当時の人たちに怒られそうですけど(笑)。編集長もすごく嫌で、半年間空白にしてもらったり、事務局長も専務理事もやりたいと思っていませんでしたし。でも、責任感だけは強いので、場が与えられたら、頑張ってやっちゃうんですよね。そう考えると、私が自分で選んだのは、銀行を辞めたことと、学生時代にセツルメントに入ったことだけかもしれない(笑)。

◆根がマジメなんですね。だから、やるとなれば懸命にやるし結果も出す。

◇その間に、子ども劇場は30年以上を経過、192名から50万人の会員組織になり50億円産業にもなったけれど、次第にこれでいいのだろうかという思いが強くなって。

 でも、組織が30年以上も経つと、マンネリ化したり、金属疲労を起こしてしまうということは、どんな組織でも起こりうる問題だったのだというのは、今はわかりますが、当時は「変革をしなければ……」と焦っていましたね。

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支援のネットワークを拡げてゆく

◆勢いに押されて根本的な質問が遅くなりましたが、あの、子ども劇場はどういう活動をするところなんですか。

◇基本精神は、「子ども達が“自主性のある大人”になっていく為に必要なことをするところ」でしょうか。学校のペーパー上の勉強だけでなく、地域での社会体験、自然体験や文化体験が必要だということです。

 私自身が企画・実践した例で言うと、タレントの清水国明さんに校長になってもらい、北海道の天塩川で全国から集まった初心者ばかりの中高生50名でカヌー体験とか、長崎や沖縄の無人島で暮らすとか、プロの作家や演出家にお願いし、1年かけて子ども達と芝居を創り、お金をとって公演するとか、とにかくいろんなことを計画して実行する。挫折や成功など、いろんな体験こそが子どもの成長を助けるというのが、ミッションでした。

◆お芝居とかに限定するのではなく、全部含めた子ども劇場なんですね。

◇よく間違えられるんですけど、劇場っていうとシアターって思われがちですが、フランス語では広場とかいう意味もあるらしい。

◆子育てに必要な様々なプロジェクトをやる全国組織。

◇そういうことですね。50年以上も前、子どもは家庭で育てるのが常識だった時代に、「子どもは家庭の中だけでは育たない」というのだから、かなり“先駆的”だったのでしょうね。

 

 九州の福岡で産声を上げた組織が、草の根的に全国へ広がり、巨大化していく経緯を、福田さんは創設者の妻として、あるいは編集者として間近で見ることになった。その頃はNPO法人などなかったが、やっていることはNPOそのものだったと言える(現在はNPO法人子ども劇場・子どもNPO全国センターになっている)。大きくなった組織には本部があり、県組織があり地域組織があるという構造になる。

 最初は、劇団の一つ一つを訪問して交渉していたのが、まとまった分厚いパンフレットの中から通信販売のように選んでいくような例にあらわれるように、次第に自分たちで創造的に創り出す意識が薄れていく。また、日々の運営に追われ、組織的にも子ども劇場だけで固まって、周囲を巻き込んで前へ進む力が弱くなった。こうしたことに疑問を感じた人もいて、福田さん自身も任意団体からNPO法人になって出直すしかないと考えたが、そう思わない地域組織もあり、NPO法人になるグループと従来型でいくグループに分かれ、分裂の道をたどることになった。

 その時期、福田さんは子ども劇場を母体として、「チャイルドライン支援センター」や「日本子どもNPOセンター」を立ち上げ、港区の「子育てひろば“あい・ぽーと”」の創立責任者として準備に奔走する。一方でほぼ同時期、文科省からの委託を受け、船上での子ども達の体験事業の一つとして、『はらぺこあおむし』の原作者、エリック・カールさんを日本に招聘する為にカナダまで飛んでいる。すごい馬力である。

 

◇日本子どもNPOセンターは、ざっくり言うと子ども系のNPOをネットワークする団体。不登校系から、冒険遊び場系から、乳児を対象にした子育て支援系から文化芸術系まで。ただその組織形成の中で私は、いかに自分が人間を知らないか、社会を知らなかったかを思い知らされました。いろんな利害関係が発生し、信じ切っていた人がこんなにも変貌するのかという辛く痛い経験もしました。あと、3人の子どもが成人して離婚もしたし。本当にいろいろなことがあった末に、子ども劇場を完全にやめたんですね。5年前に。

◆エッ。子ども劇場分裂、新組織で奮闘、そして離婚も。波瀾万丈すぎます。子ども劇場とは40年も関わってきたんだから精神的にキツかったのでは?

◇はい。頑張って頑張って頑張ったけど、創立して40年の全国組織として、求心力がなくなっちゃいましたね。ボロボロになっちゃいました。ただ、2003年に「次世代育成支援対策推進法」という法律が出来、私も国の委員の末席にいたのですが、“子育ては社会全体で”という基本精神を聞いた時に、「あっ、これで子ども劇場の理念が少しは継承されたかな?」とも思いました。

 あちこちで、「僕も子ども劇場に入っていました」という若い人と出会いますし、自らNPOを作って起業している子ども達も出ていますし優秀な人材は輩出したと思いますね。

◆でも、福田さん自身はボロボロになって

◇その期間はね(笑)。でも、私にとって子ども劇場は“人生大学”というか、いい体験をたくさんさせてもらいました。取材では、作家の五木寛之、養老孟司さんなどの文化人、経団連や同友会のトップの方、政治家も小沢、鳩山、菅さんをはじめ、とにかく会って話を伺いたいと思う方にはほとんど会えました。私は、興味を持つのがみんなより3〜4年早いので、その人たちが売れっ子になる前にインタビューするからかな? 申し込んで断られたことがないですね。

 カナダから招聘した『はらぺこあおむし』は、NPOとして初めて東宮御所に伺い、皇太子、雅子さん、愛子さんとそのお友達の前で公演をしました。

 で、今の事業では前科八犯の人やホームレスさんともお友達になれて……。考えてみると幅が広いですね(笑)。

◆子ども劇場を辞められた後は?

◇ボロボロになってウロウロしていた頃、あるハローワークに行った時、女性のキャリアカウンセラーに、「福田さんは普通のとこは向きませんよ」と言われ、「いいとこがあります」って、駆け込み寺の玄さんのところを紹介された。

◆ここで話がつながりました。そういう経緯だったんですね。

◇でも歌舞伎町だし、なんか空気が澱んでいる感じで、あんまり積極的ではなかった。だけど、今までに関わったことのないNPOには興味があるので事務所に行ったら、その場で玄さんが「明日から来てくれ」って。でもお金がないから、一ヶ月目はもらったんだけど、二ヶ月目からはボランティアで。

◆人助けしてる人の人助けだ。

◇はは。私はそういうときに何かをやろうと思うんですよ。

 NPOは身を削って無報酬で働きなさいとう事ではありません。資金があれば玄さんはもっと社会貢献できるはず。そのためには、行政のお金を引っ張って来るとか、経団連の人達のところに玄さんと行って、実情を知ってもらうとか。そういうことをいろいろやってきました。最終的には、いろんな方のご協力で、ある財団の会長と会い、うまくお金のめどがつきました。

 NPOは世のため人のためでもあるけど、自分のためでもある。若い人が自分もNPOで働きたい! と思える社会を作りたいというのはありますね。

◆NPOの弱点は資金面。全面ボランティアや持ち出しでなんとかやっているところが多いですからね。それで今は、困窮状態にある人の再チャレンジを模索しているんですね?

◇人間、一度失敗すれば、それですべての人生がおしまいというのは違うと思う。失敗の中から、いろんな事を学んで大きくなるし豊かになる。だから、「再チャレンジ」にこだわるのかな?

 今年度は福島・仙台と東京と九州2カ所の合計5か所でやろうと思っています。東北では仮設住宅で孤独死の人が増えているんですよね、だから、福島のNPOの人と協力して仮設の家から地域に出てきてもらおうと計画しています。農作物を作って、上手くいけばそれを製品化して売って行こうと。

 九州では生活保護率が高い筑豊と北九州市の2カ所で、地元のNPOや介護事業主さんと協力して、無料でホームヘルパーの資格2級をとって就労に結びつけようと考えています。

◆パワフルだ。

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ひとりひとりの変化を見られるという生きがい

 3度目の電話が入った。男の子は福田さんが紹介した人に会うことができたが、金を貸して欲しいと言い出せず、所持金が80円しかないという。苦笑しながら、それで大丈夫? と念を押す福田さん。そう、歩く? うん、歩けるね、どうにかして宿泊場所までたどりついてね。明日また会って、先のことを考えよう。

 どんどん声を掛け、甘い言葉を使わずに励ます。地味な、本当に地味な仕事である。けれど、路頭に迷う人にとって、福田さんの声はどれほど頼もしく聞こえることか。役人の杓子定規な対応とは違う。同情するだけの一般人とも違う。社会復帰への第一歩に向けて背中を押してくれる得難い存在だ。電話を切った福田さんは小さな吐息をつき、姿勢を正してこちらを向いた。

 

◆具体的にはいまのような個別の対応が中心ですか?

◇そうですね。本当にいろんな人が来ます。16歳から68歳まで。

◆いろんなネットワークを通じて連絡が入ると、まず本人に会うところから始まりますよね。どんな話から事情を探るんですか?

◇そうですね、お茶を飲みながら、日常の何気ない話しをしながら、だんだん核心に入っていく人もいれば、ズバリ、これから先どうしようというところから入る人もいて、いろいろです。

◆素直にしゃべってくれるものですか?

◇しゃべりますね。私も言います。さっきの子は、私がその子の宿泊先をさがして、あちこち電話しているのに、食べたものは運ばないし、私が重たい荷物を持っていても無視。

そういう時は、「年長者が重たいもの持っているときは“持ちましょうか”って声をかけるんだよ」とか、「ご飯食べたらありがとうって言うんだよ」とか、そのまま言いますね。そういう、普通に親が教える事を教わってないですから。この子が社会に出て仕事をするためには、そういう事を習得していかなきゃいけないじゃないですか。

◆仮に社会常識が備わっていても、社会復帰は困難ではないですか?

◇現住所がないと雇ってもらえませんし、募集があってもほとんどが非正規雇用ですから正規採用なんてまず無理。

◆ファストフード店でも?

◇ないです、ないです。あんなのはこの世界ではエリート(の仕事)です。

 自宅の近所でホームレス生活している男性がいるんですけど、空き缶を集めているんですよ。で、「いくら稼げるの」って聞いてみたら、夜中の十二時から、朝の八時まで八時間労働で20kg集めるんです。10kgが920円とか940円とか相場があるんですけど、1880円×20日とかで生活しているんですね。

◆到底家賃は払えない。

◇聞いてみると15歳で青森から上京して、大工の仕事は東京で修行をして建設業を渡り歩き、高度経済成長の中をがんばってきた人なんです。それが、脳梗塞になったらポイですよ。病院に1年いて入院代を払ったらスッカラカン。おねえちゃんの所に一年くらい居たけど居づらくなって、それ以降路上生活。17年間空き缶集めて月収3万くらいで生活してるんですよ。よく生き残っていますよね。それでも「国の世話にはならない」って言っているんです。でも脳梗塞を煩った人ですから、冬場は生命を落とすことなるほど危険。とにかく(役所に)掛け合ってやっと部屋を借りられたんです。

◆それは良かったです。

◇彼のことで私がすごく感動しているのは……新宿公園で待ち合わせをしてJRに乗ろうとしたとき、突然足を引き摺りながら走りだすんです、切符を私に買わせないために。そういう人もいらっしゃるんですよ。

◆そういう方をサポートすることが福田さんの生きがいにつながっていますか。

◇そうですね、寒かったし、あのままいったら死んじゃったかもしれない。「公園のビニールハウスから6畳一間の“我が家”が見つかってよかった」とか「命が助かってよかった」っていう満足感はありますね。大きな組織にいた時は、靴の底から足を掻くっていう感じでしたから。

 今は一人ひとりの変化が見られるし、自分の力の限界もよくわかる。社会の状況も、ホームレス状態になっている人の目からみると、今までと違う面が見えてくる。

◆役所はどんな対応なんですか?

◇彼が、路上生活から屋根のある生活になるその過程では、福祉事務所のワーカーさんと喧嘩したりもしました。

 でも、ワーカーさんにも言い分がある。やり合って、仲良くなって、「あなたも大変よね」とか言いながらやっていると、つぎの機会には助けてくれるようになったり、ホームレスさんへの固定概念も少しだけなくなっていく。こちらも、公務員に対する偏見がとれて来たりして、信頼関係ができてくる。

◆お互いが変わってくる。

◇そう、私も彼も許容量が広がるわけです。刑務所出所者のひとが意外と優しかったり、ホームレス状態にある人が毎日銭湯に行っていたり、シュークリーム用意して待っていてくれてびっくりしたり。そういう風に、自分の中の人間への概念が何歳になっても広がっていくってことは、うれしいことでしょ。自分の中で今日よりも明日が少しづつ変化していく、そこに生きている意味があるというか。だから、だんだん元気になって来ている気がします。

◆いつと比べてですか。

◇子ども劇場の後半期、組織をなんとかしようともがいていた時期。

◆大きな組織にいると窮屈になっちゃうタイプなんでしょうか。

◇しがらみとか、固定的な物の考え方とかが苦手というのもありますし、“具体的な人が見える“っていうのが違いますよね、1人の変化が見られるっていうのが。

◆子ども劇場のときも、最初のうちはそれが感じられていたのかもしれませんね。

◇そうだと思います。私にとっては制度やシステムを作るのと同時に一人ひとりの人間と関わること、この両方が必要だし重要なことなのでしょうね。私ね、これまでの人生、自分で選んだものは何一つない、ずっと偶然の重なりのように思っていたけど、結局は、私自身が自分で選びとってきたのかなという気がしてきました。これは新しい発見! インタビューを受けてほんと良かったですよ。

 

 

※プライバシー保護のため、文中の相談者に関する情報(年齢・出身地・内容など)はすべて変更されています。

 

 

★プロフィール

福田房枝(ふくだ・ふさえ)

1950年、福岡県田川郡香春町生まれ。学生時代のセツルメント活動の後、福岡県大野城市で保育士として勤務しながら、1969年から福岡子ども劇場の活動に参加する。上京し、劇団「風の子」機関誌の編集部を経て、36歳で子ども劇場全国センター出版部に入り、40歳で編集長、その後事務局長、専務理事となる。1999年には、チャイルドライン支援センターを創立し、初代事務局長に。2002年には「日本子どもNPOセンター」を設立し、専務理事になる。1998年のNPO法や2003年の「次世代育成支援対策推進法」などの成立の際には、法案作成にも関わった。その後、一般社団法人「日本駆け込み寺」を経て、現在はNPO法人「市民福祉団体全国協議会」内で、生活困窮者支援事業を行っている。

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